フェイスブック若き天才の野望___(8)

そして、第6章。

 第6章では本物の企業へということで、第5章で資金調達は完了したので、次の課題はどういった人材を自分たちの会社に雇うかといったことでそれに関してのエピソードだった。

 彼らは会社の経営についてなにも知らなかった。なぜなら彼らはまだ21歳になったばかりだったから。私たちと歳が変わらない...。いざ実際会社経営してくださいといきなり言われても困ってしまう。

 ところでザ・フェイスブックの周りからの印象は最悪で、非常識な若者達が勝手にやってる会社だと認識されていた。そこで、人材確保に力も入れようとする。だが、大学生で職についたことない彼ら下で働こうとする優秀なエンジニアがいなかった。そもそも、ザッカーバーグがどういった人間を欲しているかあの性格だからわからなかった。

 こんな感じでエピソードが続いていき、よく最適な人を選んできたなと思った。本当に運がいいと思う。人との出会いはとても面白い巡り合わせで重要なことだと改めて思った。だから、これから出会う人たちも今まで出会ってきた友達や先輩、先生などいろんな人たちとの出会いを大切にして行きたいと思った。

 話は戻って、ザ・フェイスブックの印象をシリコンバレーでもっともクールな会社といった印象に変えようとしていた。 

会社のCEOになるのは、大学の寮で誰かと同室になることは大分違う経験だ。

  今まで、彼らは、Tシャツでジーパンのラフな恰好で仕事を行っていたが、デザイナーズジーンズにシャツといったフォーマルな恰好へと変化していった。あるメンバーは久しぶりに会った友達に驚かれたという。

 いろんな人材を探し、雇いながら、広告での収入面など自分たちの課題を解決していく中、ザ・フェイスブックをユーザー情報は、多様な目的のために利用できる独自の資産であるということが、だんだんと認識され始めた。さらに、実名を名乗ることで確実に身元が分かる情報と個人に結び付いた沢山の情報が合わさり、それ以前のインターネットサービスでは不可能だったユーザーに対して深い洞察を提供することができた。そういったことで、いい方向へと進んでいく。

 そして、2005年9月20日に"ザ"を取って"フェイスブック"と会社名も正式にした。

しかし、パーカーが企業の運営者として不適任と発覚する。なぜなら、彼は夢中になって大仕事をやり遂げるが、その後放ってしまう傾向で、経営の責任者として向いていない気質であった。社員たちにも彼が気まぐれなところにも目についた。彼もこのことを認めていた。さらに、フェイスブックに不安な要素を持っているのではと思う社員もいた。そして、ちょっとした事件が起こり、彼は辞任する。まさか、アクセルと交渉したり、ザッカーバーグの地位を確立する機構改革など素晴らしい仕事ぶりをしていた彼がここで退くとは、考えていなかった。本当に何があるかわからないなと思った。

フェイスブック若き天才の野望___(7)

今回は前期最後なので、きりのいいところまでと思い、第5章と第6章を読んだ。

まずは、第5章から。

フェイスブックの投資家が決まるまでのストーリーが書かれていた。投資家を釘付けにしたのは、ザ・フェイスブックの成長グラフ。また、フェイスブックのユーザーが毎日ログインするというその熱中の仕方にも強く惹かれていた。確かに成長している企業に目をつけ投資するだろう。こういった投資家がたくさんいる中でいきなり、バイアコムフェイスブックを丸ごと7500万ドル(=約83億円)で買収したいと提案してきた。だが前にも書いた通り、会社を売ろうと全く考えていないザッカーバーグは見向きもしなかった。もし、20代で83億あったらもう働かなくても生きて暮らして行けるのに…。

すでにワシントン・ポストとの契約をしようとしていたフェイスブック。そんな中、ベンチャーキャピタリストのエルフシーがどうしても投資させてほしいと言ってくる。彼は、しつこく、何とかしてザッカーバーグに会おうとした。そして、彼と会うと投資について提案した。提案のメリットとデメリットは以下の通りだ。

メリット:シリコンバレーに関する知識とコネを大いに利用できる

デメリット:もし投資を受け入れば、運営に口を出したりなど自由が減るかもしれない

といったことだった。運営のことに口出されたらザッカーバーグにとってたまったもんじゃない。いつも読んでいて忘れてしまうが、彼はまだ、私たちと同じ20歳。こんな話をしている学生はいるだろうか。どこかにはいるかもしれないが、私の身近にはそういった人がいない。だからか、あまり読んでいてもそういったことを想像するのが難しい。

そして、この章を読んでいて1番驚いたエピソードは、ザッカーバーグが泣いたこと。ザッカーバーグは普段「人の話を聞かない」らしい。口を開かず無関心な様子で、相槌すら打たない。だからと言って、何にも聞いていないわけではない。感情を内に秘めたポーカーフェイス、そんな性格で、よく知っている人じゃないとわからないといった様子だった。

グレアムと契約を約束していたのにも関わらず、それを上回るいい条件を出してきたエルフシー。やはり、約束を果たすべきなのか、それともいい条件に乗っかるべきなのか、どうしたらいいかわからなくなり、頭の中がごっちゃになってしまったのか泣き出してしまったという。グレアムは本当に優しい人で、そういった状況を打ち明けたのにも関わらず、「約束は気なしくていい。幸運を祈っている。」と言ってもらった。ザッカーバーグはこの言葉に救われた。結局アクセルと契約し多額の資金を手に入れ、いろんな条件をお互い出し合い、何とか会社の主導権を奪われないようにリスクを最小限にとどめることができた。

契約書にサインをしたこの日。彼はミリオネアになった。こういう時大騒ぎすることを嫌うザッカーバーグであったが、多少は祝う気持ちがあったらしい。珍しい…。やはり、いろんなことがあってそれをやり遂げた後の達成感が彼にもあった気がする。

次は資金調達が終わったので、人材を集めることをいよいよ本格的にしていく。

フェイスブック若き天才の野望___(6)

今回は第4章を読み終えた。

フェイスブックで過ごす学生が多く、自分の魅力をアピールしようとみんな必死でプロフィール写真にこだわり、自分の趣味などを丁寧に書いていて、自分のアカウントを作り上げていた。確かに自分は”こういうものに興味があります””こういったことが好きです””こういう人間です”というのを誰かに知ってもらうとなれば、書かざる負えない。そんな中、フェイスブックは”ウォール”というユーザーがメッセージを書き、それに対してコメントできるといった新機能を追加した。今では当たり前にこういった機能が存在している。やはり、まだSNSを出会い系として使っているユーザーが多く、これを使って相手を口説いたりしている学生がいた。フェイスブックはどんどんユーザーにアクセスしてもらい、プロフィールをあさってもらうことで、長時間フェイスブックで過ごしてもらう狙いは、成功した。そしてもう1つ”グループ”という機能を追加した。変な名前のグループが多くいろんなグループを気軽に作れた。メールアドレスを使わなくなったので、聞く必要もなくなった。私が中学生の時よく親のメールアドレスを友達に教えて交換をよくしていた。高校生になるとスマホを持つことになったがそのころからLINEを使うようになってからはメールアドレスの交換なんてしなくなった。メールアドレスを打つのが面倒くさいと感じていた私にとっては便利だなと思っていた。

フェイスブックの成功の道を歩んでいたが、マークは、イヤーホグも同じくらい熱心に取り組んでいた。彼は、この時点でフェイスブックが100%成功するとは信じていなった。あるメンバーは、ワイヤーホグに反対していてその理由は、そのサービスを続けていたら訴訟に巻き込まれるかもしれなかったからだ。そして、やっと頭を冷やして考えるようになったマークは、時間を無駄にしていたことに気づいた。

急成長し続けるなか、大学をターゲットにしたフェイスブックのような同じサービスを提供するライバルたちが登場した。マークは、それを叩き潰すことが課題であった。そこで、彼らがとった戦略は”包囲戦略”であった。

「つまり、ライバルのソーシャルネットワークがある大学で、オープンした場合、ザ・フェイスブックはその大学でオープンするのはもちろん、その付近でできる限り多くの大学に一斉に進出した。周囲の大学の学生たちのクチコミがネットワーク効果を発揮し、ターゲットの大学の学生たちにザ・フェイスブック選ばせる大きな圧力がかかるはずだという考えだった。」

この戦略が見事に成功を収める。私がもし、その時のユーザーであったらフェイスブックを使いたい。ある大学限定でやっていたサービスを自分の大学で使えるようになったらこっちを使いたくなるだろう。ユーザーの心をつかむのがとても上手なフェイスブック。当時そこの学生であったらこの戦略にひっかかていた1人だったかもしれない。

 

 

 

フェイスブック若き天才の野望___(5)

今回は、タイトル通り”フェイスブック以前”の話が書かれている第3章を読んだ。

 

もともとSNSというコンセプトは新しいものではなく、初期にフェイスブックの要素の多くは、他のパイオニアたちによって開発された。今回マークがフェイスブック開発にあたってアイデアを盗用したとされ避難された。現代的な意味でのSNSが登場したのは、1997年からであった。私たちが生まれた頃からだったのか...。

 

何個かフェイスブックが出来る前の似たサービスを紹介したい。

まず、シックスデグリーズ→実名をベースにする、友達の友達そのまた友達といった形でこの機能は今のフェイスブックに使われている。

次に、前にも紹介したフレンドスター→メンバーがデート相手を見つけるのを手助けする機能以外の実名を使う、プロフィールに写真を使うといった機能もまねた。統一性を重視していた。今でもこのサービスはあり、フィリピン60%、インドネシア、マレーシアなど主に東南アジアで使われている。

2004年1月。フェイスブックオープンわずか2週間前、グーグルから誰でもできるオープンなソーシャルネットワークが出されたアメリカで人気になった”オーカット”であったが、なぜかブラジルでマイスペースというフレンドスターのクローンのサービスに熱狂的なファンが増え、それに反応したオーカットは、ブラジル、ポルトガル語のサービスも始めてしまい、そういったサービスであるという雰囲気を帯びたため、アメリカのユーザーは離れていっていったそうだ。やはり、範囲を増やしてしまったところがいけなかったと思った。

そして、グリーンスパンが作った”ハウスシステム”にはいろんな機能をつけすぎで、ほとんど何でもできるといったシステムであまりにも役立ちすぎたとマークは語る。

フェイスブックは、極度に簡素で機能を最小限。そのシンプルさが成功要因だった。

フェイスブックが4月に公開されると関わってきた人たちに盗用だと言われ、非難された。フェイスブックを作るのに、いくつかのヒントを持っていたマーク。確かに関係を持ち、少し一緒に仕事をした人にとっては、”俺のアイデアを盗用しただろ”と言いたい気持ちはわかる。だが、マークは、そういったことを参考にし、自分で必要な機能かそうでないかを見極めているから賢いと感じたし、そういったことに気づかない人たちが悪かったのでは?と思ってしまった。

 

 フェイスブックになるまでマークがポンっと思いついたものではなかった。もともといろんな人がこういったサービスをつくっていた。だが、マークはそのサービスの中でも必要ないものは削り、本当に必要なものを見極めるということができる才能があった。ネットワークというイメージは複雑なイメージがあるから、単純でなければ私たち利用者は使うことが出来ない。何でも1つのことでできるのは、便利である。いらない機能を削るという案は、勇気がないとできないと思った。

 

フェイスブック若き天才の野望___(4)

今回は第2章を読みきった。

マーク・ザッカーバーグは、ナップスターの創業者であるショーン・パーカーに出会い感激し魅了された。パーカーは、マークが信じられないほど野心的であることに気づき、まるで皇帝のようだったと語っていた。夕食を共にするだけでそんなことが分かるかと思った。そしてある日、また夕食を共にしていると電話があり、パーカーの約50%保有している持株を剥奪されてしまう。パーカーに同情した彼は彼から学びたいと社長に任命した。いきなり社長に任命したのだから、それほど彼の人材は優れていたのに違いない。

そしてみんなで生活しはじめる。マークは夜働し作業してても1番早起き、働くときはTシャツにパジャマのズボンで過ごしていた。なんてラフな格好なのだ。私もバイトでラフな格好ならいいのに。マークが耐えられないことがあったそうだ。それは、作業しているときに話しかけられることだ。音楽やTVの音は気にならないらしい。私の弟に似ている(笑)マークは内気で童顔な見かけだが、断固たる絶対的なリーダーで仲間と愉快に騒ぐのが好きである。仲間と議論を始めたりすると突然立ち上がり、手を後ろに組んで部屋を行き来する癖があるらしい。名探偵みたい。フェンシングが好きで家の中でしたりしていた。なぜフェンシングか好きなのか気になった。

フェイスブックの話に戻る。マークはフェイスブックがテクノロジーとビジネスの両面で適切に成長させていかなければならないと自覚していた。パフォーマンスが落ち込まずに済んだ理由は①すばやい問題解決②わざと意図的に成長速度をコントロールしていた。これはこの先が分かっているからこそならではだと思う。もし私なら、一気に広げてしまっていたと思う。経験に乏しい若者たちが運営していたのに...

フェイスブックの初期成功を支えた要因がオープンソースソフトウェアを利用してコストがかからなかったことだ。とはいっても成長に合わせてサーバーを購入したり、ホスティングの料金を支払ったり、そうなると資金調達が必要になる。そういったことはサベリンが任されていた。しかし、パーカーがいろいろやってしまうためサベリンのフェイスブックでの役割が困難なってしまった。広告主とのやり取りなど学業をおろそかにできないために時間がなかった。サベリンがフェイスブックについて思いつくアイデアはいつも賛成されなかった。もし自分がこの立場だったら結構厳しい。自分のことを否定されている気がしまう。 

フェイスブック若き天才の野望___(3)

今回は運について

沢山のユーザーが利用することでサーバーが圧迫され運営の問題となっていた。成長と共に制限されてしまうと遅れをとることになってしまう。そんな時に運が味方する。スケールアップするための時間があったこと、この後にも出てるくるが、モスコヴィッツの存在である。


フェイスブックが成功を収めることができた重要な理由が3つある。

 

①大学で始まったこと

人間関係が濃密な大学で多くの人は友達と活発に交流する。友達の友達として関わることも多くなった。

ハーバード大学という環境

ハーバードではいろんな学生がウェブサイトをつくっていて、珍しいことではなかったそうだ。だが、やはり寮の隣部屋に優秀なプログラマーであるで、高い知性を持ち、リーダーシップの持ち主であり優秀なモスコヴィッツが同じメンバーであったことが要因である。

ハーバード大学というアカデミズムの最高峰で生まれた

これも、大きな魅力であったそうだ。ハーバードはどんな分野であれ卓越した権威持っている。"ハーバードで生まれた"となると信頼がおけることになる。例えば"メイドインジャパン"と書いてあると我々日本人はその商品に信頼がおけるのと一緒である。


いろんな要因があるが、成功するにあたりやはりこれらは運があったのではないだろうか。要因でもあり運でもあったのだろうと感じた。


しかし、彼が関わった別のSNSの時にアイディアを盗んだと主張するやつらが出てくる。これはこの先読み進めばわかることだろう。

そして、2004年4月にザフェイスブックを正式に会社設立。彼、モスコヴィッツ、サベリン 3人だけだった。誕生後4カ月 1000万ドルで買収されそうだったが、一瞬たりとも会社を売るつもりなかった。

 

第2章に入った。

マークたちは在学しながら、ザ・フェイスブツクの仕事をしていた。そんなある時、広告業界の会社と接触。試しにキャンペーンの広告を流すと予想してた2倍の応募があり反響であった。しかし、利益を目的としていないマークは広告を売って収入を増やすことは、ユーザーを満足させることに比べれば、重要性が低かった。たしかにユーザーを満足されることは、作ってる人からしたらやり甲斐を感じるが、私なら少しはその代償に収入があってもいいなと考えしまう。そして、いろんな制限をかけ、ビジネスに関してはサベリン に任せていた。

 

さらにリスク分散のために、別の事業を始めたマーク。ザ・フェイスブックはあくまで1つのプロジェクトに過ぎない彼は"ワイヤーホグ"という、音楽共有サービスを開発した。これは音楽だけではなくビデオ、文書などファイル共有サービス。共有相手は友達だけで、フェイスブックに直結できた。

 

今回はここまで、56ページまで読んだ。

フェイスブック若き天才の野望___(2)

前回に引き続き、今回も面白いエピソードがあった。

 

彼は次に"フェイスマッチ"というサービスをリリースした。この目的はキャンパスで誰が一番ホットな人間かを決めるということだった。

このサービスにはチェスプレイヤーの強さのランクを決めるために使われるコンピュータプログラムを利用し、2人の同性の人物を表示し、どちらがよりホットかを投票できるサービスだった。

 

フェイスマッシュで使われた写真は、ある友達に協力を得てログインパスワードを教えてもらい、写真と名前をダウンロードしたそうだ。違法なことかもしれないが、彼にためらいは全くなく、ある意味非常に頑固で騒ぎを起こすのが好きな性格である。何かする前にいちいち許可を取ることを嫌った。

今、みんなといろんな起業家の本を読んで、その起業家のことを発表しているが、聞いていて、他の有名な起業してきた人物の性格、特徴と似ていると感じた。

 

しかし、みんながみんなこのサービスを面白がってはいなかった。性差別主義、人種差別主義だという抗議で2つの女性団体が立ち上がり、ハーバードのコンピュータ管理部は彼のウェブアクセス停止させ、大学の査問委員会に召喚され、①ハーバード大の学生の倫理規定違反②PCセキュリティーの侵害③著作権の侵害④プライバシーの侵害の罪状 で告発された。

 

彼はこんな大ごとになるとは思ってなかったし、実験のつもりでやっていたと述べているが本当に度が過ぎているというか、私だったらこんなスケールが大きいことなんてできないなって思うし、こういった考えが思いつかないなって思った。

 

さらに彼はウェブアプリを作り続けた。

自分の単位のために、お気に入りのコンピューター科学の教授のために、他の学生のプロジェクトの手伝いをしたりと。

そして、インターネットで次に必要とされるソフトウェアは何か?という疑問に思い考えた末、

"thefacebook.com"というドメインを取得し、コースマッチとフェイスマッシュのミックスでフレンドスター(SNS)を加えたものを作成。

当時のSNSは主にデート相手を探すために使われていたと書いてあって最初の利用目的を知って驚いた。

学生たちがそういったサービスを強く求めていた時代だったのも知ることができた。今では当たり前になってしまっていたので、当時の需要を知ることもできた。

そして、2004年2月4日に「ザ・フェイスブック」が誕生してからものすごい勢いで広がり、ユーザーが増加し続けた。

「このサイトの気質は、ユーザーが多くの友達を誘って加入させてることができれば、それだけ利用価値が増すところにある。」

それから、いろんなところからこのサービスを使いたいという依頼があり、コロンビア大学スタンフォード大学、イェール大学を追加し、さらに多くのユーザーが出てきた。

この3校では既に同じようなSNSがあったがここで競争に勝ち抜くことができれば、このサービスは、他のところですぐに成功できると考えたところも頭いいなと感じた。

そして、他大学の学生とも交流したいという声が、多くなり両方のユーザーが合意すれば何かしらの交流ができるような仕組みを作った。(今では認証という方法であろう)ここから現在でも使われているフェイスブックの、ソーシャルな関係の基本的な枠組みができた。

 

今回は43ページまで読んだ。

いろんなソフトウェアを大学で試せるような機会があるのは、なかなかないのではないのかと思った。今の時代こんなことしたら問題児として取り扱われるが、あの時代だから試すことができたのではないかと考えた。